灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(27)
2019年1月20日

若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)
義江が明治学院の寄宿舎生活を送っている最中、時代は明治から大正へと入っていた。
義江の身元引き受け人・瓜生寅の下山秘書から明治学院に「瓜生危篤」の一報が入り、義江は急いで瓜生家に駆けつける。
が、万事遅かった。
邸内は、人力車や馬車でごった返し、屋敷の畳を踏めたのは到着してからどれくらい時間がすぎてからだろう。
瓜生寅死去の知らせを受け、ひっきりなしに弔問の客が来る。その中ようやく秘書の下山を見つけると、
「もう一度学校に帰って、服を着替えてきなさい。学校の方には話しましたが、1週間程休むんです」
下山は葬儀の準備に追われ姿を消してしまった。
義江にとっては初めての葬儀だった。伊藤博文公の国葬で沿道に参列したことはあったが、自分の面倒を見てくれている身近な人の死は初めてだった。
いや違う、ついこの前山手線の車内で目が合って微笑んでくれた我が英雄であり、殉死した乃木大将がいた。義江にとっては身近な大人たちより思い入れが強い。
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