灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(28)

執筆者:佐野美和2019年1月27日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳だが、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

 義江は京北実業で再び野球に情熱を燃やした。

 京北には野球部がなく、部の設立を嘆願しても学校側は首をたてに振らなかった。義江は有志の仲間を引き連れて、近くの学校で練習をし、日曜日は他校で試合をした。

 すると京北の教師に呼び出されて、

「君は本校に野球部のないのを知っているのに、掻き回しに来たのか。今後もし続けるのであれば、相当な処分をするから」

 と言われた。

 京北の勉強、簿記とソロバンは義江にとって、全く理解できるものではなかったし、やる気もなかった。義江はこの学校ともおさらばだなという気持でいた。

 この少し前、春日部の野球場で試合をしていた時だった。

「うちの学校に転校して、野球部に入らないか」

 男はからだが大きく、早稲田実業の帽子をかぶっていた。

 野球の名門校の早稲田実業とあって、義江は天にも昇る気持ちになり、瓜生家には内緒で転校の手続きをした。

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