灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(29)

執筆者:佐野美和2019年2月3日
若き日の藤原義江。撮影年は不詳、撮影者は、第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市の「藤原義江記念館」提供、以下同)

「義江さん、あなたお父さんに会いに行った?」

「行ったさ。でも留守だった」

 門司芸者のつばめにこう聞かれて、すぐに嘘がでた。

 つばめは義江の父親が門司の大里というこんなにも近くに住んでいるのに父子が会わないのはおかしい、今すぐにでも会いに行けと義江にうながす。

 父・リードは門司・大里の丘の中腹に立つ「水無荘」と名付けられた大きな別荘に住んでいるようだ。

 義江は家の前まで行くには行ってみたのだが、灯りが外に漏れる家のドアを叩く勇気はなかった。

 学校を目まぐるしく変えたこと、ツケや借金は結局リードに請求が行き払ってもらうことなど、堕落する自分にカンカンであろうと思うと顔は合わせられない。

 初めて狂おしいほどに好きになったつばめの花代も、ツケだ。

 2回ほどつばめが負担しているが、それは若い男として少し得意な気持ちになった。

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