「公方」と「皇帝」と「大君」

執筆者:岡本隆司2019年2月9日
2人の「天下人」――豊臣秀吉(左)と徳川家康(右)――はいずれも、当時の外国から「皇帝」と呼ばれることがあった

 

 前回にみたとおり、外来漢語の「日本国王」は定着しなかった。やはり日本の風土になじまなかったのであろうか。それに対し、足利義満とその後継者たちの称号として、明らかに定着したのが「公方」である。

公方の盛衰と定着

 義満の到達した地位は、父祖からうけついだ将軍ばかりではない。公家のトップを占め、なおかつ独善的ではあれ、「太上天皇」号も称した。かれは単なる武門の棟梁ばかりではなく、公卿の首班をも超えた公権の第一人者である。「公方」はそれにふさわしい敬称として常用されるようになった。

「公方」の字義はいうまでもなく、公(おおやけ)であり、かつては天皇・朝廷そのものを指したことばだった。だから足利政権が「公方」と呼ばれたのは、武門が朝廷を包摂して、その位置に取って代わったことを意味している。未曾有の革命的な事態を指し示すといってもよい。

 しかし実力で成り上がった政権は、実力がなくなれば凋落する。いかに「公方」と名乗っても、称号はその実力に見合う価値しかもちえない。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。