「大君」とその変貌

執筆者:岡本隆司2019年2月23日
「大君」征夷大将軍を対外的にどう呼ぶか――新井白石(右)は「日本国王」としたが、徳川吉宗(左)は元に戻した

 

 16世紀の最末期、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、東アジア史の画期をなす。日本列島という狭い範囲だけでも、政権の交代をもたらしたし、ひろくみれば、明清交代の呼び水にもなった。朝鮮半島の激動は今も昔も、それだけのインパクトがある。

 そしてその前後、朝鮮王朝との交渉経験の豊富な対馬が果たした役割は、決して小さくなかった。しかしそれはもはや従前のような「日本国王」としてではない。対馬の宗氏は秀吉・家康に服属しつつ、日本の統一政権と朝鮮との通交を果たす橋渡しの役割を演じた。朝鮮出兵の後始末も、そうである。

「書き換えられた国書」

 出兵で断絶した日朝の通交を回復するのは、対馬じしんにとっての課題でもあった。半島との交易が対馬の死活に関わるほど重要だったからである。しかし徳川幕府も朝鮮政府も当初、相下らない姿勢を譲ろうとはしなかった。

 仲介を買って出た対馬は、板挟みの恰好である。そこで、幕府からの国書を偽造して朝鮮に送り、回答使節の来日をとりつけることにした。久しく「偽使」で通交してきた経験のある対馬ならではの方法である。

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