灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(32)

執筆者:佐野美和2019年2月24日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

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「浅草オペラ時代」の始まりと宮下あき(旧姓・中上川、のちに藤原義江の伴侶)が東京に出戻ってきた時期は、ほぼ重なる。

 あきは学習院初等科に入学する娘と2人、家出同然に上京し、夫・宮下の空き家になっている京橋の実家にお手伝いさんと共に暮らしていた。

 夫や実家の中上川家の反対を押しきり東京での生活を始めたのだった。

 あきにも意地があり、「娘の教育は自分の責任」と、学校とのやりとりは非常に熱心だ。

 わずか7、8年前に女子学習院に通っていたというのに、今は父兄として学校に来ていることは、我ながら不思議な錯覚にとらわれていた。

 奪われた娘時代を取り戻すかのように、あきは社交にもいそしんだ。

 学習院時代の学友たちと、夜会を開いたり芝居観劇に熱をあげた。芝居は、あきの贔屓である橘屋・第15代市村羽左衛門が演ずる歌舞伎であり、新派の劇も帝劇で催される海外の正統派を選んだ。

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