灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(33)

執筆者:佐野美和2019年3月3日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

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 義江(戸山英二郎)は、3歳年上で声楽の師でもある浅草オペラのプリマドンナ安藤文子と付き合っている。

 すでに文子の渋谷の実家で暮らし、文子の250円という破格の出演料で生活しているのだ。当時の小学校教員の初任給は50円。義江もある程度の出演料はもらっているが、その4分の1だ。 

 浅草の小屋で売るブロマイド収益を含めると、テナーはプリマドンナの足元にも及ばない。

 文子は義江と結婚したいと考えているが、義江は家庭を持ちたいなどとはまだ考えたこともなく、テナー歌手として自分を磨くことしか考えていなかった。

 文子の母親と、年のはなれた弟・浩(ひろし)との4人生活。

 浩のことを義江はかわいがった。

 子供ながら目鼻立ちがしっかりとして、丸まると太っている。義江も自分の幼少時代を思い出したりした。

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