灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(34)

執筆者:佐野美和2019年3月10日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 葬儀も一段落し、瓜生商会の重役たちと話し合いを持った。

 若くして突然亡くなったリードには遺言のようなものも無い。しかし生前に書かれた義江の洋行についての出費計画のメモに基づき、瓜生商会も金銭的な協力をしてくれるということで、義江の洋行は再び決定した。

 その後、コックの村田が言いにくそうに遠くを見ながら義江に語り出した。

「実は、若様のお母様のお兄さんの松次郎さんは昔……」

 久しぶりに叔父の名前を聞いて驚いた。

「松次郎叔父がどうしたの?」

「……リード様のところにお金の無心に来たことが何回かあって……」

 義江はさもありなんと思った。ヤクザ者と言われた松次郎に口利き屋に連れて行かれ、小僧の職を転々とした思い出が蘇る。生活のためとはいえ小学校にも通わせてもらえず、丁稚奉公はきつかった。そして小僧のわずかな駄賃から金を叔父に上納する。

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