灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(35)

執筆者:佐野美和2019年3月17日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 文子は瓜生商会の倉本春吉に電報を打った。

 大正九年五月十一日

 オトコノコウマレタ

 後日、文子から瓜生商会への手紙には、文子の達筆な毛筆で、

「子供も変わりなく元気にて、子供の名も主人航海中に洋太郎と名付くる様申し来たり早速戸籍簿に洋太郎として登記いたしたくご安心くだされ度先ずは御礼申し上げます。藤原文子」

としたためられた。

 第1次世界大戦の終戦直後で、ミラノは建物も人も大きなダメージを受けていた。歴史ある建物が戦火のススで汚れ、大人たちはすっかり疲れ、若者たちは戦争は終わったと言うのにあげた拳をどこに下ろしていいのか分からず、街で立て看板などの設置や政治集会などを開いている。

 お金がなく、新しい環境にまだ慣れない義江も苛々していた。

 せっかく多くの人のお膳立てで、遥かな海を渡って欧州まで来たのだ。どんな状況であれ、勤勉になにか勉強してつかみ取ろうというのが普通かもしれないが、義江はやさぐれたように過ごした。

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