維新の波紋

執筆者:岡本隆司2019年3月23日
「大君」徳川慶喜(左)の大政奉還で「二重主権」は消えたが、パークス英公使(右)はその前から「大君」を否定していた

 

 列強は「開国」以来、徳川幕府・大君と条約をとりむすんだ。それなら条約を履行する責任も、もっぱら大君の政府が負うはずである。ところが幕府は、条約を調印するにあたって勅許を申請し、外交権の独占を自ら否定してしまった。いわば内外整合しない行為である。

「二重」の一元化

 こうした事態の根柢には、かつてマシュー・ペリーも記し、列強の外交を主導した初代イギリス駐日公使ラザフォード・オルコックも言及する、日本の「二重」の政体が作用していた。「皇帝」がふたり存在したばかりではない。「聖職的」「精神的」でしかなかった天皇が、にわかに「世俗的」「政治的」な力量をもちはじめたのである。

 政権が「二重」になってしまっては、内外の政治は停滞が避けられない。それは条約・開港の不履行にくわえ、「攘夷」運動による個々人の生命・財産の危機にまで及んだから、外国の側も手を焼いていた。国内で「公武合体」が叫ばれるのと時を同じくして、列強があえて日本の政治・政体にまで関わってきたゆえんである。

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