灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(36)

執筆者:佐野美和2019年3月24日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 ある日の夕方、義江はロンドンに着いた。

 ミラノでさよならした喜波貞子(きわていこ)への未練しかない。自分がテナーになりたくて勉強と仕事を求めて洋行してきたのに、成功している喜波から離れられないのは自分の才能に自信がないからなのかと自問自答する。

 そんな時、生まれたばかりの洋太郎が夭折したことを知った。自分も悲しかったが、文子が受けている悲しみを思うと前に進めないくらい落ち込んでくる。

 ロンドンにいる浅草時代の友人・松山の部屋はわずか6畳ほどの小さな1部屋なのに、部屋のほとんどをグランドピアノが独占している。松山と義江は、グランドピアノの左右に簡易なベッドを斜めに置いて寝た。

 息もつまりそうな狭さなのに、ロンドンに呼んでくれた松山に義江は感謝した。何日かすると、グランドピアノは松山の借金のカタとして運ばれてなくなったので、広々と眠ることが出来た。

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