灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(37)
2019年3月31日

若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)
ロンドンの晩秋はもう真冬並みの寒さだ。
時計台や宮殿の屋根にまでかかるような、低く厚く暗い雲が憂鬱にさせる。
仕事がほとんど入らない義江は、発声練習のかたわら、ハイドパークなどに出かけて鳩に豆などをあたえて過ごしていた。
ロンドンの日本人社会は大変狭いコミュニティだ。
日本からたくさんの名門の御曹司が、ロンドンに留学している。白州次郎もこの時期、ケンブリッジ大学の聴講生として在籍していた。
日本大使館の中に「日本人クラブ」という、日本からの留学生や芸術家の卵になにかと手を焼いてくれ、相談に乗ってくれる部門がある。
日本人クラブの一条公爵には、はじめてロンドンに来た時から、生活の面や遊びで世話になっている。
パリへの出稼ぎ旅行から帰ると、一条公爵から大使館への呼び出しがあった。
「藤原君、パリはどうだった?」
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