東アジアの変貌

執筆者:岡本隆司2019年4月6日
清朝の光緒帝(左)と、朝鮮国王の高宗(左)。いずれも東アジアが大きく変貌していく明治期に在位した

 

 明治日本をめぐる東西の矛盾の様相は、君主号とその翻訳で最も端的にみてとれる。たとえば、消え去った「大君」をとりあげてみたい。

君主号の矛盾

 欧米は当初から“His Majesty the Tycoon of Japan”と称した。majesty=majestasとはすでにみたとおり、至高の主権者を指す称号である。欧米はもとより「大君」をemperorとみなしていたし、emperorならmajestyとほぼ不可分だといってよい。

 もっとも当時の欧米は、emperor/empireだけではなかった。たとえば、最強にして最先進国のイギリスである。ヴィクトリア女王はもちろん、Her Majesty the Queen of Englandだった。すでに王国も帝国も対等なヨーロッパでは、KingもEmperorもMajestyにほかならない。

 ただしそんなMajestyという欧文の称号を、当時の東アジアがどう解して扱ったのかは、自ずから別の問題である。19世紀のはじめのロバート・モリソンの辞書には、Majestyの訳語に「陛下」をあげており、われわれも普通に使う漢訳語であろう。ほかに「朝廷」「皇上」という訳語も載せており、“the title of the emperor of China”との説明もみえる。

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