吉田幸弘は中学、高校時代に腎臓病を患い、社会人になるまで治療を受け続けた。スポーツはからっきしで、国語や社会の授業は苦痛で仕方なかったが、数学には特異な才能を見せた。高校生の頃には独学で大学レベルの高等数学をマスターし、教師を驚かせた。必然的に、大学は数学と物理で受験できる同志社大学の工学部を選んだ。

「少し変わっているが、頭は飛び切りいい」

 大学では論理数学を専攻し、当時最先端だった「多値論理」にハマった。このころの同志社では、京都大学の教授を退官した電子材料研究の大家・阿部清が工学部の教授をしていた。阿部は、日本でいち早く金属材料に代わる半導体材料としてシリコン樹脂の重要性に気づいた研究者であり、日本の半導体産業の黎明期に大きな足跡を残している。

 阿部が京大の教授だった時の教え子の1人が佐々木正である。佐々木は第2次世界大戦が始まる直前、京大在学中に逓信省の研究所に引き抜かれ、電話用の真空管の開発に携わり、軍の命令で真空管を製造する川西機械製作所(後の神戸工業)で働いた。

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