灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(39)

執筆者:佐野美和2019年4月14日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

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 藤原義江の生涯の代名詞となる『我等のテナー』というタイトルの連載が始まった。『朝日新聞』(東京朝日新聞)にて、大正12(1923)年3月28日から4月5日まで、9回にわたる。

 記者の原田譲二が書く内容は、義江がニューヨークで人気俳優・ルドルフ・ヴァレンティノに間違えられる歌手として知られることから始まり、亡くなった父と行方不明の母について、苦労した少年時代のお涙頂戴的な話が続く。そしてイタリー留学、ロンドンのバイオリニストの卵フェローツァとの儚い恋などが、義江の美しい写真とともに掲載されている。

 とにかくすごい美男子の歌の上手い日本人との混血が、苦労した末に欧米留学し、栄光の階段を登り始めたというような構成だ。

 本場オペラの話などはわからない日本人でも、母を探す子供の気持ちは良くわかる。記事は反響を呼んで、有楽町(現在の「有楽町マリオン」)の朝日新聞の本社には電話や手紙の問い合わせが数多く来た。

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