「帝国」の生成

執筆者:岡本隆司2019年4月20日
明治28(1895)年の日清講和条約(下関条約)で独立を獲得した朝鮮から、天皇に対して謝意を表したいと外交ルートを通じて照会があったことを報告した公文書(アジア歴史資料センター公開 / 国立公文書館所蔵)。文中に「朝鮮国大君主陛下」の文字が見える。なお下関条約の日本文では、「大日本国皇帝陛下」「大清国皇帝陛下」と表記されている

 

 明治日本は17世紀・近世以来の従属関係を足がかりに、琉球の内地化をすすめた。いわゆる「琉球処分」である。1879年に琉球藩を沖縄県とした廃藩置県で、そのプロセスはおおむね完了した。

 しかし琉球処分は、日本国内の「処分」ではすまない。それは琉球国王の存在の否定であり、ひいては清朝在来の秩序体系の否定を意味したからである。そして清朝にとって、琉球だけの問題ではなかった。

衝突

 とりわけ安全保障上いっそう重大な朝鮮半島も、同じ秩序体系の中にある。朝貢国・属国の滅亡を許せば、琉球のみならず、清朝の中枢に近く、地政学的に死活の位置にある朝鮮王朝も、同じ運命に遭いかねない。日清はかくて次第に、半島政権の国際的地位をめぐって、対立を深めていった。

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