灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(45)

執筆者:佐野美和2019年5月1日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 大正15(1926)年4月。

 あきの別れの手紙を読み、ロンドン、パリ、ベルリンと横断している義江から返事があった。それぞれの場所で書いたのか、立て続けに4通あった。

 日付順に読んでいくと、最初の手紙はあきの別れ話に対して怒り心頭の長文の手紙だった。次は、義江自身の愚かさを悔いる謝罪の文章だ。3通目はもう一度思い直して、なんとか日本を出て自分のそばに来て欲しいという嘆願。最後の手紙は、

「前の3通で僕の心はわかってくれたことと思う。何者にかえても僕にとってお前が必要だ。どうしても日本を出られないのであれば僕が帰る。電報で返事をくれ」

 一旦別れ話の出た男女の仲は濃密さを増す。

 洋行などする者も稀で、妻は夫の承諾がないと旅券を得られぬ仕組みとなっているため、

「行かれぬ」

 という電報を送り返した。

 義江が帰朝の支度を整えているところにビクターから吉報の電報が入った。 

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