灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(48)

執筆者:佐野美和2019年5月4日
若き日の藤原義江。撮影年不詳だが、撮影者は第2次世界大戦時、米日系人収容所で隠し持っていたレンズでカメラを作り、密かに収容所で暮らす日系人を撮影していたことで知られる写真家の宮武東洋(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 昭和3(1928)年8月15日、大阪毎日新聞社門司支局ビルの1階に、撞球場(ビリヤード)があり、社会部記者の大山岩男はくわえタバコにキューを持ち、球を突くことに集中していた。

「大山さん、東京からです」

 やってきた給仕から面倒くさそうに伝言メモを受け取ると、本社(『東京日日新聞』を発行していた毎日新聞東京本社)からの伝言用紙だった。

 紙に書かれている文字に目を落とすと、

「これは面白くなる」

 とキューを慌てて置き、階段を一段抜きで駆け上がり2階の編集局に戻った。

「宮下あきさん ミラノに待っている藤原義江と結婚するため、近く日本を脱出」

 という特ダネが、8月9日『國民新聞』の朝刊社会面にでかでかと掲載され世間は驚いたが、ほかの新聞社の記者は特ダネを取られてがっくりしていた。

 大山もそんな最近が日々面白くなく、やさぐれたように下の撞球場で玉突きにこうじていたところだった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。