灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(51)

執筆者:佐野美和2019年5月12日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

第3章 幸せの頂

 昭和4(1929)年12月。あきと離婚した宮下左右輔は祝言をあげた。

 宮下は震災で焼けてしまった京橋の実家を再建して眼科医院を開業し、あきと「我等のテナー」藤原義江との三角関係を世間が面白おかしく取り上げるのをふり払うように研究に没頭していた。東京帝国大学の講師や東京女子医専教授も兼任した。

 平成9(1997)年、日本弱視教育研究会発行の『弱視教育』に、宮下の「弱視児童特殊学校設立の急務」の論文が64年の時を経て再び日の目を見た。

 弱視教育の発展に寄与した眼科医としての功績をたたえ、宮下がヨーロッパにおいて弱視学校を視察し、一層学校設立の思いが強くなったと紹介している。一大運動を展開し、日本眼科医師会を動かし、特殊学校設立の要望書を文部大臣・東京市長に提出。結果、昭和8(1933)年12月に東京市南山尋常小学校に、日本初の弱視学級が設立された。

 宮下の著書『宮下小眼科』は、大正15(1926)年に初版が発行されて以後、長きにわたり医学生たちの教科書として読まれている。初めのページには「十年教鞭を取れる 大阪醫科大学の後繼たる 大阪帝國大學に此小著を捧ぐ」とある。

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