灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(52)

執筆者:佐野美和2019年5月19日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

 あきは妊娠した。

 義江とあきはシシリー島での演奏旅行を終え、一旦ミラノに帰り、新緑鮮やかな初夏のパリに来ていた。そこであきの妊娠がはっきりとした。

 大切な時期であると一旦はミラノの自宅に落ち着き、義江はソフィア、ブカレスト、ベオグラード、ブタペストへと演奏旅行に出かけた。

 夏になると2人は避暑に、スイスのサンモーリッツと隣村のポンテレジーナで過ごした。

「緑の濃淡の美しい山々の間に小さな湖水が、ちょこんと置かれて居て、湖水の北側の、斜面に壮大なホテルが立ち並んで居る。遠くに万年雪と氷河を頂いた山脈を眺める」

 とあきはサンモーリッツの景色に心を奪われたことを書き残している。

 しかしその壮大なホテルに宿泊してみると、欧米の宿泊客との富の程度の違いに驚く。それは一桁も二桁も違い、日本の金持ちと言われている人たちの慎ましさを比較してしまう。それくらい気おくれしてしまう場所であった。

 開放的な空気とお腹を締めつけたくないということもあいまって、あきは洋装を楽しんだ。ミラノの駐在夫人たちは皆流行の断髪のヘアースタイルだったが、あきは義江の好みで長めの髪を結っていた。

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