灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(53)

執筆者:佐野美和2019年5月26日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

 昭和7(1932)年7月17日の『朝日新聞』夕刊に、その24年ぶりの親子再会の記事は載る。

 赤坂区青山南町5の33の藤原邸に母・菊がやってきて対面を果たしたと、着物姿でくつろぐ義江の写真と、テーブルを挟み同じく着物姿で小さな髷をゆった菊の笑顔が写されている。赤坂区青山南町の家はあきが宮下と離婚後、1人で住んでいた家だ。

 記事によると「母堂は『私の顔に見覚えがありますか』と言ったきりうつむき涙を流し、われらのテナーは、ああ見覚えがありますと言って涙を流した」とある。

 菊は56歳になっていた。昭和初期のこの年齢ならおばあさんと言ったところだが、姿勢よくかくしゃくとした姿でカメラにまっすぐ視線をそそぐ笑顔は、さすが琵琶芸者といったところで、義江の笑顔の方にこそ素人くさい照れがあるほどだ。  

 続けて記載されている義江の談によると、親子面談の橋渡しは日本大学教授の「松原博士」と、菊が天理教の信者である関係で六義園(現在の都立庭園)の「中川園長」がしてくれたという。

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