なぜ「古墳時代」は長続きしたのか?

執筆者:関裕二2019年6月6日
実は周濠が重要(C)時事

 

 2019年5月14日、ユネスコの諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)が「百舌鳥(もず)・古市古墳群(大阪府堺市、羽曳野市・藤井寺市)」を世界遺産一覧表に記載するよう勧告し、登録されることがほぼ確定的となった。

大山古墳の造営を試算すると……

 ふたつの古墳群は4世紀後半から5世紀後半にかけて造られた。その中でも特別大きいのは、百舌鳥古墳群の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵。堺市。墳丘長486メートル)と誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵。羽曳野市。墳丘長420メートル)だ。大山古墳の全長は日本最大で、エジプト・クフ王のピラミッドや中国・秦の始皇帝陵とともに、世界最大級の王の墓と考えられている(ピラミッドは墓ではないとする説が有力視されているが)。

 古墳群は東西14キロ、南北30キロの長方形の中にあり、長尾街道と竹内街道という古墳時代から重宝された古道で結ばれている。ヤマトと大阪の津(港湾)を結ぶ、古代のメインストリートだ。

 今でこそ樹木で覆われる前方後円墳だが、造営当初は、葺石(ふきいし)が金属的な輝きを放ち、大阪湾に近づいてきた船舶を威圧していた。前方後円墳は、王の墓であるとともに、ヤマト政権のパワーを人びとや諸外国の人間に見せつけるためのオブジェだったと考えられている。これだけ巨大な墳墓を目の当たりにすれば、誰もがヤマト政権の発展を認めざるを得なかっただろう。 

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