灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(55)

執筆者:佐野美和2019年6月9日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

 旗揚げした「藤原歌劇団」は、初演の『ラ・ボエーム』から『リゴレット』『カルメン』『トスカ』とグランドオペラを立て続けに公演し、順調なすべりだしを見せていた。

 旗揚げでは3000円の赤字が出たが、『トスカ』では2000円の赤字ですんだ。

 オペラ運営で一番コストがかかるのがオーケストラだ。50人近くの演奏者がボックスに入ることもある。旗揚げからしばらくは義江のコネで松坂屋オーケストラがわざわざ名古屋から派遣され、松坂屋もちで運営することができた。

 義江にとって借金は「どうにかなるさ」と楽観的で、『トスカ』でついに新聞各紙が芸術的評価をしてくれたことが何よりもうれしかった。

 あきは妻として母としての役割に加え、歌劇団の運営から出演者のオーディション、衣装や化粧、床山に至るまで采配をふるった。体が2つあっても足りないくらいの忙しさだったが、自分の才能を生かせ、愛してやまない夫と同じ夢に向かって歩めることは幸せ以外の何物でもなかった。

 とにかく人が足りない。舞台に上がるのは夫だけではないのだ。1つのオペラに、数十人の出演者が必要になってくる。音楽関係の知り合いや音楽学校、芸能関係者に声を掛け、取り急ぎオーディションという形式を取り舞台にあげていく。最終的には夫の判断が重要になる。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。