灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(59)

執筆者:佐野美和2019年7月7日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

 昭和12(1937)年の夏が終わる頃、義江はアメリカやヨーロッパよりももっと遠い南米への音楽旅行に旅立つことになった。ニューヨークから戻り、わずか2カ月半の日本帰郷であった。南アフリカ経由の船で、モンバサ、ケープタウンでも歌う。義江は南アフリカの美しさに心奪われる。

 南米各地では現地にいる多くの日本人のために慰問音楽会を開いていくのだ。南米での第一声「リオデジャネイロ国立劇場」での歓声は義江を感動させた。日本大使のアテンドで優遇される演奏旅行だ。

 サンパウロ、サントス、ブラジルから、ウルグアイのモンテビデオ。ブエノスアイレスでは独唱会とともに11回ものラジオ出演。

 昭和13(1938)年の正月はチリの首都サンチャゴで迎える。日本公使館でジリジリとした太陽のもと、お雑煮をいただく。チリ中部のバルパライソで歌い、ペルー首都リマ。ここで生まれて初めて勇気を出して、義江の嫌いな「飛行機」というものに乗った。

 あきはさみしくて仕方がないが、今の日本では「国民的歌手」と言われた自分の夫でさえも思うように稼ぐことができないと判断し、泣く泣く夫の旅立ちを見送るしかなかった。

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