灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(60)

執筆者:佐野美和2019年7月14日
自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)

 昭和14(1939)年の正月は鎌倉山の自宅で家族3人が揃って迎えることが出来た。それこそ世界を股にかけている夫が和服姿でくつろぎ、自分が作ったおせち料理を食べている姿と一緒に居られるというのは、あきの本懐でもあった。

「さ、“マメに健康”の丹波の黒豆もたべてくださいな。何よりもパパは健康第一ですからね。戦争だなんだでどうなっちゃうんでしょうね。今年こそは平和な世の中になって欲しいわ」

 あきの一層高い声が元日のピンと張りつめた空気に響き渡る。

 義江とあきが力を注ぐオペラは、浅草時代と違い本格的なものをやっているにもかかわらず、固定客はほぼ頭打ちで熱狂的な流行はつくれない状況だ。

 国民が一丸となり日本国のために「質素倹約」を掲げようとする社会では、「オペラ」ではなく肩の凝らない流行歌、いわゆる「歌謡曲」と呼ばれる歌が人々の憩いとなっている。誰もが口ずさめ心に明かりを灯してくれる歌謡曲は、人の口から口へと歌い継がれ広まっていく。

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