灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(61)
2019年7月21日

自著『雨だれのうた』(昭和22=1947=年刊より。撮影年不詳だが、義江と結婚できた幸せの頂にいたころ)
もう1つの再会と別れは、義江が盲腸炎で帝国大学病院青山外科に入院していた時、新聞記事を読んで新潟から駆け付け「先生」と泣きながら入って来た女、早苗である。
義江と早苗の出会いは昭和2(1927)年9月23日。義江の2度目の帰朝の時で、全国68回の独唱会をこなしていた。その中の1つに新潟があった。
この頃は、もちろんあきとも交際中で、あきは離婚申し出を宮下医師に懇願している最中である。
その晩、新潟きっての料亭「鍋茶屋」(現在も営業中)で打ち上げの宴会が行われた。新潟音楽協会の幹事役が、6人組のおけさ美人を呼んでくれた。その中の1人が早苗だった。
「早苗は、雪国特有の肌の白い女で、胸の発達具合は外人並みのりっぱさ、そのうえ、いっそう彼女に惹きつけられたのは、その滅多にないような明眸であった」
と義江の述懐がある。
座敷でおけさの歌にのって踊る6人組のなかで、早苗のまなざしと胸に一瞬で虜になった義江は、新潟に立ち寄るごとに早苗との逢瀬を重ねた。むしろ積極的に新潟の公演は入れていたほどだ。
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