民衆信仰「修験道」の過去・現在・未来(中)

『修験道という生き方』(新潮選書)共著者・田中利典師インタビュー

執筆者:森休快2019年7月28日
大峯修行。「西の覗」から捨て身で身を乗り出す(写真提供・金峯山寺)

 

――本(宮城泰年・田中利典・内山節『修験道という生き方』新潮選書)の中で内山節先生が書いておられましたが、修験と密教との親和性でいうと、そもそも日本における密教の大成者である弘法大師空海が山の修行者であった、というところが非常に面白いですね。

田中:以前、弘法大師の高野山開創1200年(2015年)が近づいていたころに、その記念事業として「弘法大師高野山開創の道プロジェクト」というのが計画されます。ちょうど、当時の高野山真言宗の内局で村上保壽さんという私と同郷の教学部長がおいでになって、世界遺産シンポジウムでご一緒したときに、「田中君、開創1200年で、今、弘法大師が高野山に至った道を探しているんや」と言われました。

「弘法の道」と「世界遺産」

田中:これは、弘法大師の『性霊集』とか嵯峨天皇への上表文の中で、弘法大師自身がお書きになっている文章があって、「吉野から南に1日、西に2日行きて幽玄の地を見つける。名づけて高野という」と書き残している。村上さん曰く、「つまり、お大師さまは吉野から高野に入られたんや。この道を今探していて、高野から天辻峠まで和歌山県側の踏査は終わったけど、その先は全部奈良県やから、お前手伝え」と言われましてね。それで県に掛け合って、奈良県の事業として調査してもらい、7年がかりで最終的にこのルートだろう、という道を確定しました。

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