灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(63)

執筆者:佐野美和2019年8月4日
まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)
 

第4章 新たな船出

 観光客で賑うJR鎌倉駅周辺を避け、大船駅からタクシーに乗ること十数分。緩やかな上り坂が長く続いていくと、頭上にはモノレールが走る。

 この辺りは、春にソメイヨシノが花をつける桜の名所だ。

 すると目の前にひらけて見えたのは、「鎌倉山」と彫られた高い石碑を中心にした、小さな三叉路のロータリーだった。

「ここからが鎌倉山です」

 運転手の声を合図に車は山道に入っていく。山道といっても両側2車線の道路で、隔離された歩道は無い。

 勾配はぐっと急になり山らしくなってくる。目をこらして見ていると、緑の奥に隠れ家のように点在する洒落たカフェやレストラン、そして別荘なのか自宅なのか分からないが瀟洒な家が目に入る。

「黒幕」との異名を持つ菅原通済によって企画・開発が始められ、昭和4(1929)年から売り出されたのが「鎌倉山」だった。

 上水道・電気・電話などの基盤が整備された最先端最高級の別荘地・住宅地というのがうたい文句で、通済の鎌倉山住宅株式会社は高級志向を打ち出すのに成功し、名士や有名人が居を構えたりもしたが、伸びしろが得られず、すぐに鎌倉山は通済の会社から「西武」の運営に変わっていった。

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