灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(72)

執筆者:佐野美和2019年10月6日
まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)
 

 藤原歌劇研究所が建つ高台の赤坂氷川町は夜になると一層静けさを帯びる。

 並びの氷川神社はとっくに門が閉ざされ、周囲の道には裸の街灯が申し訳ない程度に灯る。

 研究所の裏手からは眼下に花街の小さな灯りが点々と広がる。

 氷川町から赤坂の街に出る坂の途中には、ぽつぽつと花柳界の女たちがそれぞれの旦那にあてがわれた小さな家があり、ときおり三味の音色が流れてくる。

 研究所の正面玄関前の道は下り坂、戦前「北三井邸」と呼ばれた三井財閥の所有だったが戦後すぐ占領され、のちにアメリカ大使館職員の住居となっている。

 義江はこの500坪の研究所の土地を三井家当主の三井高公から無償提供され、上物は義江のパトロン企業に援助してもらい、残りは鎌倉山の自宅を抵当に借り入れたお金で完成させた。

三井高公(右)には大いに可愛がられた

 研究所の2回は小さな4部屋を有する自宅になっている。1つは義江の部屋、1つはあき、もう1つは息子の部屋で、今はグラフィックデザイナーの妹尾河童が居候している。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。