「ヤマト」建国後に衰退した「出雲」の謎

執筆者:関裕二2019年10月11日
出雲が北陸に伝えた「四隅突出型墳丘墓」(筆者撮影)
 

 10月を神無月(かんなづき)と呼ぶのは、日本全国の神々が出雲に出かけてしまうからで、出雲では逆に神在月(かみありづき)と呼ぶ。この話、すでに連載91回で記している(2017年10月12日『「神在月」から解ける「国譲り」「天孫降臨」神話の謎』)。神話の中で出雲の神々は「現実の政治にタッチしないで祭祀に専念しろ」と命じられ、これが「年に1回神々が出雲に集まる」という信仰に繋がったというものだ。

 ただし、出雲の謎は、まだ尽きない。たとえば、神話の中で幽界に去って行ったはずの出雲の神々や人脈が、なぜか歴史時代に入ってヤマトに姿を現す。「出雲」は、創作された神話ではなかったのか?

 初代神武天皇はヤマトで即位すると、出雲の事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘・姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶り正妃に立てた。生まれた子がのちに第2代綏靖(すいぜい)天皇となり、姫蹈韛五十鈴姫命の妹の五十鈴依媛(いすずよりひめ)を娶った。

 綏靖天皇は「出雲」に囲まれているが、「神渟名川耳(かむぬなかわみみ)の和風諡号も無視できない。「渟名川」の「渟(ヌ)」はヒスイだ。第3代安寧天皇が娶って正妃に立てた事代主神の孫・鴨王(かものきみ)の娘も渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)で、ヒスイの名を負う。

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