ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 本州最果ての海、陸奥湾には冬と春の境の鉛色の雲が垂れ込めていた。

 今年4月上旬、JR青森駅から東に2キロ余りの堤川を越えた海べりを歩いた。青森市港町地区。魚介の缶詰、焼き竹輪などの水産加工場、問屋、造船所、町工場、倉庫が並び、住宅街と同居する一角だ。古い町名を相馬町という。海岸は青森漁港のコンクリートの岸壁で埋められ、東端は地元の海水浴場、合浦公園の長い砂浜と緑の松林に続く。啄木の歌碑も立つ、この景色だけは昔から変わらない。

 相馬町の面影を探し歩くうち、殺風景な道路沿いに残る大きな石碑と、古い観音堂を見つけた。石碑は1921(大正10)年12月、開町30周年を記念して建立されたとあり、碑文にこんな記録が刻まれる(原文は漢字)。

〈弘前藩士相馬駿と漁業総代柳谷亀太郎が、青森湾頭の未開の土地に着目し、漁民の移住を構想して県知事に開拓の事業を願い出た。5年後の明治25年、移住者はわずか6戸だったが、地元有力者らの賛助を受けて、その3年後に新しい町の区画は出来上がり、(相馬駿の功労から)相馬町と命名された。開拓は順調に成就して人口も340戸余りに増え、一つの街としてにぎやかに栄え、人々は安心して楽しく仕事をしている〉

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