30年前、民主化を求めて天安門に集まった学生や労働者たち(C)AFP=時事
 

 絶好の人材がいたものである。1989年6月4日に北京の天安門広場で人民解放軍が群がる民衆に銃口を向けたとき、在中国・日本大使館には陸上自衛隊の笠原直樹が防衛駐在官として勤務していた。笠原は天安門事件の模様を克明に書き残していた。すでに4月なかばには、学生に人気のあった改革派指導者・胡耀邦が死去していた。それを契機に学生たちの胡追悼運動が始まり、天安門広場に学生たちが集結するようになっていた。

天安門広場で

 笠原は、ソ連でペレストロイカ路線を推進していたミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長が5月15日に北京を訪問したところ、天安門に集まっていた学生・市民の士気が一段と高まったことも書き残している。それから6月3日夜まで詳しい記述が続き、同夜について笠原が記しているところは、個人の記録としては他国に例を見ないと言えるであろう。たとえば、

〈薄暗い道路を装甲車が1台走ってくる。逃げ惑う市民、後を追いかける市民、あたりは騒然としている。装甲車は時速50~60キロでグングン近づいてくる。……装甲車は、我々の前を通過すると建国門陸橋へと突進していった〉

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