2つの「1989年」――天安門とブランデンブルク門(上)
絶好の人材がいたものである。1989年6月4日に北京の天安門広場で人民解放軍が群がる民衆に銃口を向けたとき、在中国・日本大使館には陸上自衛隊の笠原直樹が防衛駐在官として勤務していた。笠原は天安門事件の模様を克明に書き残していた。すでに4月なかばには、学生に人気のあった改革派指導者・胡耀邦が死去していた。それを契機に学生たちの胡追悼運動が始まり、天安門広場に学生たちが集結するようになっていた。
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