2つの「1989年」――天安門とブランデンブルク門(中)

執筆者:佐瀬昌盛 2019年10月15日
「壁」が取り壊された瞬間(C)AFP=時事
 

 ベルリンに「壁」が築かれて以降、東ドイツの国民は西ドイツへ、また西ベルリンへどれ程の規模で逃げただろうか。『壁の年代記』(『CHRONIK DER MAUER』)によると、1962年には5761人が西ドツへ、2305人が西ベルリンへと逃げている。また、1962年から問題の1989年までには、3万1594人が西ドイツへ、4941人が西ベルリンへと逃げている。合計すると3万6535人。

 これは、東ドイツのザクセン州のマイセン市が2017年12月に擁した人口、2万8061人よりもかなり多い。マイセンは田舎町ではない。マイセン陶磁器は世界で有名であり、私の留学時代にはその売店が東ベルリンの目抜き通り、ウンター・デン・リンデンにあった。

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執筆者プロフィール
佐瀬昌盛 防衛大学校名誉教授。1934年生れ。東京大学大学院修了。成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。『NATO―21世紀からの世界戦略』(文春新書)、『集団的自衛権―論争のために』(PHP新書)など著書多数。
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