「壁」が取り壊された瞬間(C)AFP=時事
 

 ベルリンに「壁」が築かれて以降、東ドイツの国民は西ドイツへ、また西ベルリンへどれ程の規模で逃げただろうか。『壁の年代記』(『CHRONIK DER MAUER』)によると、1962年には5761人が西ドツへ、2305人が西ベルリンへと逃げている。また、1962年から問題の1989年までには、3万1594人が西ドイツへ、4941人が西ベルリンへと逃げている。合計すると3万6535人。

 これは、東ドイツのザクセン州のマイセン市が2017年12月に擁した人口、2万8061人よりもかなり多い。マイセンは田舎町ではない。マイセン陶磁器は世界で有名であり、私の留学時代にはその売店が東ベルリンの目抜き通り、ウンター・デン・リンデンにあった。

 1962年の東ドイツ人口は1713万6000人であり、1989年のそれは1643万4000人であった。その差は70万2000人。島根県の人口は現在、67万5594人であるから、東ドイツの27年間の人口減少の方がかなり大きい。ところが、

〈……旧東ドイツでは出産奨励策によって1970年代までは人口を増加させていたが、その後、人口は停滞し、さらに1989年のベルリンの壁の崩落からは、旧東ドイツから多くの人が外へ流出し、さらに出生率が減少したことで大幅な人口減を経験することになる〉

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。