灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(75)

執筆者:佐野美和2019年10月27日
まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供)
 

 昭和28(1953)年8月、第2次アメリカ公演に藤原歌劇団の団員25人は意気揚々と日本を旅立った。

 マンハッタンのオペラ歌劇団「ニューヨーク・シティ・オペラ」の指揮者、戦前の日本で「NHK交響楽団」の礎を築いたと言われるヨーゼフ・ローゼンシュトック氏から再びの招聘で『蝶々夫人』を公演するのだ。その前に、アメリカの8都市でも公演をするという一大巡演ツアーだ。

 第2次アメリカ公演を正式発表した6月4日の『朝日新聞』夕刊で義江はこう抱負を述べている。

〈(中略」これで私もいよいよ国際的ルンペンだ。今後は1年のうち半分は国内、あと半分を海外で過ごすつもりだが、連れて行く人もなるべく交代させ、また不足している男性歌手の養成もしたい〉

 そもそもこの一大ツアーは、パリ在住の砂原美智子に逢いたい一心の義江が、入念な下準備もないまま見切り発車したものであり、波乱含みのものとなる。

 これがきっかけとなり義江は結婚生活を失い、1人の手ではとても返せそうにない莫大な借金を抱えることになる。

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