灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(76)
2019年11月4日

まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供)
サンフランシスコ以降の公演は中止を余儀なくさせられた藤原歌劇団一行は、現地の日系人たちの好意により寝るところと食べ物はどうにか確保できたが、日本に帰るためのお金も無いというありさまだった。
更に、アメリカ公演のマネージャー同士の訴訟から、「契約不履行」という形で今度は義江が訴えられた。
昭和28(1953)年11月30日の毎日新聞は、
〈藤原氏は65回の全米公演契約を22回しか実行しなかった。その間の公演のあっせんや宣伝費用5116ドルを返済して欲しい〉
というアメリカマネージャー側からの訴えを紹介している。
義江の強欲から進んだ無計画なアメリカ公演はいたる所でひずみが生じている。
義江とて、すぐにでもサンフランシスコから次の公演地に向かいたい一心だ。公演さえすれば金は入ってくるのにと、この期におよんで義江は超満員の客席からのスタンディングオベーションを想像する。
義江は金策に奔走する。まずは東京銀行サンフランシスコ支店長に借金のお願いだ。お金は鎌倉山の土地と家を抵当に借りることができた。
記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。