灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(77)

執筆者:佐野美和2019年11月10日
まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供)
 

 離縁を決断しロサンゼルスから日本へと1人帰っていったあき。

 シカゴで最後の公演を終えパリへと戻った砂原美智子。

 残りの劇団員達とシカゴにいる義江は、今まで感じたことのない寂しさに襲われた。

 義江は手紙を書く。

「何度も書いては破った。落ち着いたら納得のいくまで書く。愛は絶対だ、永久だ」

 宛先は、東京の豪邸に1人で暮らす三上孝子だ。

 三上は大正時代に少女歌手としてデビューし、義江のタニマチをする父の勧めで旗揚げしたばかりの藤原歌劇団に入った。入団して数年、『シューベルトの恋』を演ずるうちに2人は男女の仲になった。昭和の初めから続く2人の仲は戦争中もそのままに、多くの慰問公演にも同行した。

 ところが戦後、砂原の登場で2人の関係はほぼ終わった状態となっていた。草創期からプリマドンナを張っていたが、その座を砂原に奪われ、さらに義江の心まで奪われ、苦しい時期が続いていた。ここ数年は体調を崩すことも多い。

 あきとの離縁を強烈に迫る砂原に対し、三上は違った。一見プライドが高いのは砂原だが、それを上回るのが三上だったかもしれない。義江が自分のもとに帰って来るのを強い信念と沈黙で待ち続けた。

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