灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(78)
2019年11月17日

撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年)より)
第5章
昭和28(1953)年も残りひと月となった。
敗戦から8年、占領が終わって1年が経つ。
GHQ(連合国軍総司令部)も「占領軍」から「駐留軍」と呼ぶようになり、あと押しされるように日本人の経済活動は活発になっているようだ。
『NHKラジオ』ではGHQの指導により英語講座を開設した。アメリカではすでにテレビの放送が始まっている。日本では戦前からのテレビジョン研究が戦争により中断されたままになっていたが、GHQの指導のもと新たに技術面や法の整備がなされていった。
昭和28年をふり返ると最も大きな出来事の1つは、テレビジョンの本放送が開始されたことであろう。しかしこの時は事の大きさに誰も気づいていない。なぜならNHKの放送開始時、日本においてテレビジョンなどというものはせいぜい1000台程度しか出まわっておらず、普及率は0.01%。一般には手の届かない未知のもので、この超高級家電製品は、当時のサラリーマン初任給の54倍という価格帯だったという。
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