ベルリンの壁をハンマーで叩くベルリン市民たち (1989年11月、筆者撮影・以下同)

 

 ベルリンの壁が崩壊してから30年目の11月9日、ドイツ各地で記念式典が催された。しかし、この日の式典や報道には、手放しの喜びや祝賀気分が感じられなかった。ドイツでは壁崩壊から30年経ったにもかかわらず、東西の市民の間でアイデンティティの亀裂が深まっているからだ。経済格差は縮まったが、真の統一は完遂されていない。

深い傷の醜悪な瘡蓋

 フランク・ヴァルター・シュタインマイヤードイツ連邦大統領は、ベルリンのブランデンブルク門の前での記念式典で、

 「ベルリンの壁は、多くの犠牲者を生んだ非人間的な構築物だった。壁はもはや存在しない。永久に消え去った。非暴力を貫いた東ドイツの革命家たちは、歴史に新しい1ページを開いた」

 と述べ、30年前に市民が社会主義政権に対して立ち上がり、壁に突破口を開いたことを称えた。

ベルリンの壁を越えて西側への逃亡を試み、東ドイツの国境警備兵に射殺された市民のための十字架が、今も残る(2016年4月)

 ベルリンの壁崩壊は、欧州の地政学的な地図を大きく塗り替える「大地震」だった。ドイツは20世紀に、2度にわたる世界大戦を引き起こし、欧州に大きな被害をもたらした。敗戦後、同国は西側を米英仏、東側をソ連によって管理・支配され、国土をコンクリートの壁によって分断された。東西分割は欧州を荒廃させた問題児・ドイツの「罪」に関する高い「代償」と言える。多くの家族が東と西に引き離された。また、数百人の東ドイツ市民が壁を越えて西側に逃亡を試み、少なくとも138人が国境警備兵からの射殺や地雷で死亡した。

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