灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(79)

執筆者:佐野美和2019年11月23日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年)より)

 人は悲しみの淵から底に落とされるのをあれこれ悩んでいるときよりも、むしろ底に落ちてしまった時の方が強い。

 これからは上がっていくしかないのだから。

 初出勤から3日目、あきの「給与取り」生活が本格的に始まろうとしている。

 狭いアパートの中で引きこもるような生活から、出勤という朝の若い光が差し込む生活が始まっている。

 山手線の電車を新橋で降りて、正面口の方に階段を下りる。改札とその先に広がる広場に大勢の人が早足で行きかう。

「さあ、私はこれから働きに行くのだ」

 万歳したいくらい勇ましい気分がよぎる。

 銀座7丁目の資生堂。

 ビルの階段を5階まで上り部屋に入る。

「おはようございます」

 先輩たちに一礼をし、あてがわれた自分の机に座る。他の社員よりも2時間遅れの出勤と決められているため、この挨拶で良いか悩んだが仕方がないと恐縮する。

 自席に落ち着き、何となく机の上のペン皿やインキ壺の位置を直してみたり、机の引き出しを開けたり閉めたりとしてみる。

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