やはり『聖徳太子は蘇我入鹿である』

執筆者:関裕二2019年12月6日
3つの古書の記述を図表化すると、古代史最大の謎の解が明快に浮かび上がる(筆者作成)
 

 飛鳥時代最大の規模を誇った方墳・小山田古墳(奈良県高市郡明日香村)に関して、奈良芸術短期大学教授の前園実知雄氏は、新たな仮説を掲げた。墳丘はこれまで考えられてきた想定よりも大きい約90メートル四方で、墓域は西側に隣接する菖蒲池古墳も含め、東西300メートルにおよぶ可能性がでてきたという。また、2つの方墳を蘇我蝦夷・入鹿親子の双墓(ならびのはか)に比定した(『古墳と国家形成期の諸問題』白石太一郎先生傘寿記念論文集編集委員会編、山川出版社、2019年10月)。

 ところで前園氏は、論文の中で小山田古墳が未完成だった可能性を指摘している。じつはここに、大きな意味が隠されていると思う。

 蘇我蝦夷・入鹿親子は、乙巳(いっし)の変(645)で滅ぼされた。中大兄皇子と中臣鎌足による正義の暗殺劇だったと『日本書紀』は言う。しかし近年、蘇我氏こそ改革派だったのではないかと、史学界も旧説を見直しつつある。たとえば入鹿暗殺ののち即位した孝徳天皇は難波(大阪市)に遷都したが、難波宮の造営は、蘇我氏全盛期にすでに計画されていたようだ。孝徳天皇は蘇我氏の準備した改革路線を継承していたのだろう。

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