灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(81)

執筆者:佐野美和2019年12月8日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年)より)

「資生堂美容部長」という肩書きを社長の伊代田から直々にもらい、おしゃれの先端を行く『花椿』の編集部を卒業したあきは、おしゃれの指導者の域に入っていく。

 日本の化粧は戦後、西洋の化粧法を取り入れていくスタイルを確立していくが、戦争による長い空白の時があるために使い方さえわからないものが数多くあった。マスカラ、アイライナー、アイラッシュカーラー……。それに洗顔や化粧水などの、基礎化粧品の正しい使い方や順番。

 資生堂には300種類もの商品がある。手引書(マニュアル)を作り、化粧品1つ1つの正しい使い方を指導していくという作業からあきの仕事は始まった。

 あきが指導していくのは、資生堂「チェーン・ストア」全国7000店の女主人たちだ。

 小売店の女主人たちの年齢は20代から50代。それぞれの地元から上京してきて、あきの講義を1週間毎日3時間聞く。汽車賃や宿泊費は自腹だが、銀座の洗練された空気に自分の仕事をかさね、夢と希望をふくらます。

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