灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(90)

執筆者:佐野美和2020年3月1日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年より)

 その知らせは、NHKの演芸班にかかってきた1本の電話でもたらされた。

昭和34(1959)年2月、日本文芸振興会が主催する第7回菊地寛賞を『私の秘密』が受賞した。

 菊池寛賞はもともと文芸や映画などに送られてきた賞であったが、時代である。テレビというメディも選考対象となり、『私の秘密』が選ばれた。

 その知らせをプロデューサーの樋口徹也が聞いたのは、名古屋だった。NHK名古屋放送局が開局目前となり、『私の秘密』の公開生放送を行うための下準備に来ていたところだった。

 帰京した樋口と後輩のディレクターたちは新聞取材を受ける。皆、普段通りスーツにネクタイ姿で新しいメディアを扱う誇りと活気に満ちている。

 それまでプロデューサーは「演出」と呼ばれていたものの、ほかのスタッフは皆「係り」「係員」と呼ばれ、この頃から次第に日本のテレビ業界にも「プロデューサー」や「ディレクター」の呼び名が定着してきた。

 新聞には「フランキーを泣かせた再会の感動!」という見出しで記事が載る。コメディアンで俳優のフランキー堺が、小学生の頃教えを受けたお坊さんとの対面で、2人でお経を唱えながらポロポロと涙を流した回のことだ。

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