灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(93)

執筆者:佐野美和2020年3月22日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』(ダヴィッド社、1956年より)

 藤原あきはその半生で様々な扉を開いてきた。

 第1の扉は、妾腹の娘に生まれるも裕福で何不自由のない生活から一転、満16歳で眼科医の宮下左右輔のもとに嫁にやられ、2人の娘に恵まれるも家を飛び出してしまう。

 第2の扉は、『我らのテナー』で売り出し中の藤原義江に熱を上げ相思相愛となり、宮下と離婚後、義江を追ってイタリアに行き、のちに結婚する。

 第3の扉は、義江が旗揚げした『藤原歌劇団』を切り盛りしながら、妻、母としての生活。

 第4の扉は、より女関係が激しくなる義江と別居の末離婚、生活のために資生堂に入社し美容部長としての活躍、そしてテレビジョン到来で番組レギュラー出演により国民的なテレビタレントとなったことだ。

 そして、第5の扉が開かれようとしていたが、まだあきはその扉の存在すら気づいていない。

 テレビの発展は目覚ましく、ついに昭和36年テレビ受信契約数は1000万件を突破した。

 あきの顔は老若男女、全国津々浦々に知られることとなり、初めの頃こそ虚栄心のようなものが満たされたものだが、最近では少し煩わしくなってきたのが本音だ。

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