灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(95)

執筆者:佐野美和2020年4月5日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 実業家時代はほとんどの問題が金で解決できてきた藤山愛一郎にとって、政治の世界というのは金で解決ができないどころか、金だけ取られて何も残らないという状況にあった。

「女房と別れて次の妻は君だから」といわんばかりの「次の総裁は君だから」という岸信介総理の話にまんまとのせられ、結果総裁選に敗れたことが、逆に藤山を「金で解決できないことがある」と熱くさせ、国を動かすという信念とともに政治にのめり込んでいった。

 日米安全保障条約交渉で外交手腕を存分に発揮した藤山だが、ここからは博打にのめり込む様に総理大臣を目指すべく総裁選に政治家人生を賭けて行く。

 その手始めとして、参議院全国区にいとこの「藤原あき」を擁立させ、藤山派の看板議員として手足となってもらうのだ。

 藤山はあきの票をすでに勘定していた。

 あきは全国に「資生堂」というネットワークの基礎票をもっている。資生堂の前の社長・松本昇は、昭和25(1950)年第2回参議院選挙全国区で当選していた。松本は資生堂チェーンストアの礎を築きあげ、のちに全国に張り巡らされた資生堂チェーンストアの基礎票で当選を果たしたという実績がある。その基礎票に、あきがどのくらい知名度をいかした票を上乗せできるかが勝負だと考えていた。

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