
実業家時代はほとんどの問題が金で解決できてきた藤山愛一郎にとって、政治の世界というのは金で解決ができないどころか、金だけ取られて何も残らないという状況にあった。
「女房と別れて次の妻は君だから」といわんばかりの「次の総裁は君だから」という岸信介総理の話にまんまとのせられ、結果総裁選に敗れたことが、逆に藤山を「金で解決できないことがある」と熱くさせ、国を動かすという信念とともに政治にのめり込んでいった。
日米安全保障条約交渉で外交手腕を存分に発揮した藤山だが、ここからは博打にのめり込む様に総理大臣を目指すべく総裁選に政治家人生を賭けて行く。
その手始めとして、参議院全国区にいとこの「藤原あき」を擁立させ、藤山派の看板議員として手足となってもらうのだ。
藤山はあきの票をすでに勘定していた。
あきは全国に「資生堂」というネットワークの基礎票をもっている。資生堂の前の社長・松本昇は、昭和25(1950)年第2回参議院選挙全国区で当選していた。松本は資生堂チェーンストアの礎を築きあげ、のちに全国に張り巡らされた資生堂チェーンストアの基礎票で当選を果たしたという実績がある。その基礎票に、あきがどのくらい知名度をいかした票を上乗せできるかが勝負だと考えていた。
あきー藤山ラインとは全く別に、出馬を考えている1人の男がいた。
藤原義江。
こちらも全国区として出馬すれば、申し分ない知名度を全国に轟かせるに違いない。
義江と政治の関わりは、「オペラの国立劇場建設」の陳情に出向いていたことだった。
「藤原義江」といえば日本人のほとんどが知っている名前だ。陳情に行った先の政治家たちから「国立劇場建設? それだったらもういっそ藤原先生が議員になられて話を進めたほうが話が早いのではないでしょうか」
そういわれて義江はその気になった。歌劇団の前支配人の吉田昇も、作曲家の山田耕筰も、「オペラや劇団のためになるから」と出馬を強く勧めてくる。
義江1人では決心がつかず、親しくしている自民党の楢橋渡衆議院議員のところに相談に行くと、「ぜひやってくれ」とのことだった。
文化振興、オペラの定着に向けて力を出せるのはこの自分しかいないであろうと腹をくくった。
決して口にすることはできないが、6年間の安定した議員歳費も60歳を過ぎ借金まみれの義江には魅力でないといったら嘘になる。
そのタイミングで、義江が息子の家で孫娘たちと食事をしていると、帰ってきた息子が、
「パパ、ママが選挙に出ることになったよ」
といった。義江は明日になったら歌劇団の何人かに出馬の意向を話すつもりでいたが、ご破算にした。
「自分のやりたいことを、あきなら自分よりうまくやってくれるに違いない」
義江は30年間の結婚生活であきにいった言葉を思い出す。
「お前にたった1つできないことがあるとすれば、歌を唄うことだな」
なんでも自分より秀でているあきに悔し紛れにでた言葉だ。
そのくらい何でもできて良識を持ったあきが出馬することは賛成であったが、元の妻が、国会という険しい巷に入るなどということはせず、静かに美しくいてほしいというのが本音だ。
イタリーに自分を追ってきたあきは甘ったれ屋の女だった。それが女関係で苦労をかけるたびに強い女になってしまったと義江は感慨にふける。
還暦を過ぎた義江は声が思うように出ないため、第一線でのオペラ歌手活動はもうそろそろ無理であろうと考えている。
藤原歌劇団にまだ借金は残る。ここのところの義江の仕事といえば金策である。
義江のパトロンは、大倉喜七郎であり、三井八郎右衛門であったが、敗戦となり時代も変わった。
それでも義江は恵まれていた。
「経済大国になりつつある日本でもオペラをはじめとした文化振興にもっとお金をつぎ込むべきだ、国ができないのであれば我々の会社で少しでも」
と助けてくれる会社もいくつかあった。また、そうさせるのが藤原義江の魅力だった。
戦後すぐに設立され今も社名を変えて現存するある繊維会社では、昭和30年代の数年間、義江を金銭面で支援してきた。義江も借金のカタとして「藤田嗣治」の絵を会社へ2枚おいていったという。
「優雅な表舞台とは違い苦しく貧しい裏舞台。たとえば劇団員が血まなこで切符をさばいたとしても1回の公演で4、500万円の赤字を出す」
などという劇団経営の難しさを義江から聞いたその社長は、藤原歌劇団の事務処理能力のなさも心配になり、次第に劇団再建に手を染めていったという。またその社長の娘や息子たちも、義江の移動の運転を買って出たり嬉々として劇団を手伝ったという。藤原歌劇団の理事も引き受け経営再建を目指し、社の記念行事などでは藤原歌劇のグランドオペラを買い切り、一夜限りの『蝶々夫人』を会場を満員に埋めつくし行ったこともあったが、ある程度劇団経営が落ち着いたところで手を引いた。
藤田嗣治の絵はその後も社長の手元に残っていたというので、義江は借金を返せずじまいだったようだ。
声の出ない義江に残されたのは、女たちとの現実の舞台だった。
パリに男がいるという砂原美智子の週刊誌報道に落胆し冷めた風を装った義江だったが、一度絡まった男女はほどけることなく腐れ縁を続ける。
昭和33(1958)年の「藤原歌劇団創立25周年記念公演」の写真がある。
『楊貴妃』を演ずる砂原に『高力士』を演ずる義江が「イヤダイヤダ」という様にすがりつき、楊貴妃はそっぽを向いている。2人の関係をそのまま現しているようだ。
『楊貴妃』初日の夜、産経ビルの9階「新東京グリル」でパーティーが開かれた。
そこでまたお金の話になるのだが、大勢の人たちが集まり水引きのかかったお祝いが集まった。中に「日本興業銀行」と書いてある封筒を気になったので義江が開けてみると、驚いたことに200万円の領収書が入っていた。第1次アメリカ公演の際に一万田尚登総裁の口添えで200万円の借金をしたが、そのまま一文の利子も払っていない。
〈さっぱり訳がわからないので、翌日銀行に川北頭取を訪問、お礼を言うと、頭取は、『僕は全く知らない』と一笑された。そこで僕は歌劇団の理事でもあり、日頃からお世話になっている日高さん(当時、興銀理事、山一証券社長)のところへ行った。『そんなの知らないよ、銀行はそういうこと出来ないもの』と一笑に付された。こんなわけでこの世にも珍しい洒落た贈り物の主が誰であるか、今もって僕は知らないでいる〉
と義江は記している。
ヨーロッパの芸術を育てるパトロネージュの気概のようなものがその頃の日本には存在し、また藤原義江の破天荒な生き方と貴族的な容貌から熱烈の支持者は義江を甘やかしていた。
話はパーティーの夜に戻る。
大勢の関係者のおしゃべりとグラスを重ねる喧騒の中で、シャンパンを一口飲んだだけで真っ赤な頰になった砂原は、
「先生しだいで私、いい奥さんになれると思うわ」
と隣の義江にイタズラっぽく笑う。やはり砂原は可愛い女だ。初めて砂原に恋したときの気持ちが蘇ってきた。
奥さん? そうだ自分は独身なんだ、いや待て、失敗をしてきた自分がまた奥さんをもらうなんて、多感で多情、浮気性の自分にそんな資格はないと思い直したりする。砂原から飛び出した「奥さん」という言葉が頭にこびりついてしばらく離れない。
後日、市川團十郎の襲名披露公演が歌舞伎座で行われる日であった。招待を受けた義江は砂原と一緒に行くため、いそいそと準備をしていた。
そこに歌劇団へ通知されたのは、「義江の母・菊が危篤」という知らせだった。
義江は、実母の死に目に駆けつけず、恋人との芝居見物を選んだ。
「私はもう死んだもの、とあの子におっしゃっていただきたい」
菊から来た手紙をいい聞かされ育った自分は、それからの人生をずっと、母に捨てられた子、母なき子というのにつきまとわれた。
「不幸者の罰当たり、と罵られようがどうしようが、僕にいわせれば、気の毒であり、哀れであり、不幸であるのは僕の方だ!!」
そうなんども自分を正当化しようと心で叫びながら行った歌舞伎座での演目は、母性愛を仕組んだ黙阿弥の『引窓』だった。義江は砂原に気づかれないように涙を手でぬぐったが、白いハンカチが隣の席から差し出された。
團十郎の舞台を観ながら瞼に浮かぶのは、琵琶を膝の上にのせ「湖水渡」を謡う母・菊の姿だ。5年間も床に伏せたきりで老衰で亡くなろうとしている今の母を見たくないというのは親不孝者なのか。
翌日の夕方義江は、白い布を顔にかぶされた菊の枕元に座った。
菊は東京に出て来てから娘を産み、義江と父違いになる妹夫婦が菊の面倒を最後まで見た。
「我らのテナー」となった息子の義江に引け目を感じ、自分が息子の前に出ていくなどとんでもないと、2人が会ったのは昭和の初めに1度だけだった。
母の亡骸を前に涙も出なければ何も悲しくない自分がやりきれなく、早くこの場を去りたい気分でしかない。はかなくて哀れな母子だったと思う。
その日の『私の秘密』は高知からの公開生放送だった。朝の新聞は「藤原あき参議院選出馬か」と伝えた。
「本当ですかい?」と驚いて入ってきた渡辺紳一郎、「オイ、本当か?」と藤浦洸が入ってきてあきを取り囲んだ。
昭和37(1962)年3月の第2週をもってあきは降板した。番組はいつも通りに行われ、特段「藤原あきさん今日が最後です」などという高橋からの紹介もなく終わった。
終了後高橋からは「選挙頑張ってくださいよ。数えたら、この7年で僕たちが番組のロケで旅行したのは50回を超えていました」
「そう、そんなにみんなで出かけたのね。楽しいと7年なんてあっという間だわ」
あきはテレビタレントとして最後の日を終えた。
3月18日、自民党から参議院選挙の追加公認候補者が正式に発表された。
発表前から藤山は、あきの選挙対策本部の人員を固めていた。選挙対策事務局長に小泉純也衆議員議員を据え、藤山派の議員が集結。
さらに藤山が考えたのは、総裁選のように派閥同士の選挙になってしまっては、藤原あきという候補者が生かされない。あきのイメージにぴったりする体制でなくてはならない。選挙ボスが横行するとかえって票が崩れてしまう。藤山は政治ズレしていない若手らを戦いの最前線に立たせ、新しい未来を予感させる選挙にしてみようと思い描いた。
そこでまず思い浮かんだのは、8、9年前から藤山の主催する政治塾「藤山政治大学院」に参加する若手らの指導にあたる「飯島清」だった。
もともと飯島は「山王クラブ」という政治研究グループを結成し選挙問題の研究をしていた。
「政治をよくするためには、選挙制度をよくしなければならない」
という考えのもと「理想の選挙」を掲げ、レポートを制作してあちらこちらの議員に配ってはみたものの、「選挙を実際に知らないから、こんなことがいえるのだ」と冷笑された中で、唯一藤山からは、
「実は藤原あきさんを、今度の選挙に出したいのだ。君たちがいままで勉強したものを実地にやってみたらどうかね。結果については私が責任を持つ。きれいな選挙というものを試してみなさい」
といわれた。
そこで飯島が集めたのは、普段から政治を考えたり一緒に活動する若手だった。
「藤山政治大学院」の参加者でもあり、普段から選挙などのアルバイトにも駆り出されていた若手や学生だった。
飯島を頭に平均年齢21歳という若手選挙スタッフがあきと顔を合わせたのは、自民党が追加公認を発表した翌日のことだった。
飯島はテレビの人が目の前に出てきたという強烈な印象とともに、
「年の割に清潔で、実に人間味にあふれた、いってみれば、おふくろの理想像のように見えた」
という。
あきの初めての選挙が始まる。(つづく)