灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(99)

執筆者:佐野美和2020年5月6日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 昭和37年6月7日、第6回参議院議員通常選挙の幕が開いた。

 敗戦、そして新しい憲法による華族制度の廃止などにより、華族議員を大半に構成されていた非公選、つまり選挙のない「貴族院」は58年間の幕を閉じ、「参議院」と新たに生まれ変わり15年の歳月が流れていた。

 表向き政党活動が排除されていた貴族院の流れを踏襲し、参議院では初めの頃こそ政党色のない「緑風会」が院内第一党会派であったが、保守合同で自由民主党が誕生し、社会党の再統一がなされた背景により、政党の対立構造が明確となる議会体制ができ上がっていた。

 第2次池田内閣のもと選挙戦に挑む自民党のスローガンは、

「平和と秩序の自民党、闘争と破壊の社会党」

「左向きの社会党、前向きの自民党」

「スト合理化反対で物価を上げる社会党、生産で暮らしをよくする自民党」

 と野党第一党の社会党を敵視するネガティブキャンペーンを立ち上げた。

 あきが自民党から出馬する参議院全国区では、51議席に対し107人の届け出があった。候補者の内訳は自民党39人、社会党19人、民社党5人、同志党5人、共産党1人、無所属(創価学会)2人。

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