灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(103)

執筆者:佐野美和2020年5月31日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 あきの出馬した参議院議員選挙当日、昭和37(1962)年7月1日、日曜日の夜9時過ぎのことだった。

 有権者の6割以上が投票に出かけた日の晩は、昼間に反してことのほか静かで、厚い雲に蓋をされた地上は陽が落ちても蒸し暑かった。

 藤山愛一郎経済企画庁長官は首相官邸を訪れ、対応した大平正芳官房長官に、たった今辞表を提出してきたところだ。

 永田町から私邸の白金台に戻る道すがら、車の後部座席に深く座る藤山はとぎれとぎれの店のネオンを見すごしながら、明日から始まる平日の1週間を想像し「正念場だ」とつぶやきながらこぶしをにぎった。

 辞意の理由は2つある。

 1つは、池田内閣の経企庁長官でありながら、池田と経済対策の考え方が大きく違うことだ。

「池田さんが『所得倍増論』をもって総裁選に臨んだときには、安保騒動のあとの国民感情をおさめるためにも『うまいことをいうものだ』と感心した。しかし、それは一時的な戦術として評価したにすぎない。国民総生産13兆6000億円を10年で27兆2000億円くらいにしようというわけだが、実際には80兆円くらいにふくらんでしまった。ふくらみすぎるとゆがみが出るので、経済全体のバランスの取れた成長を考えなくてはならない」

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。