灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(109)

執筆者:佐野美和2020年7月12日
撮影年不詳ながら、義江との離婚、独り立ちを決意した頃のあき(自伝『ひとり生きる』=ダヴィッド社、1956年=より)

 ぐっと体力は落ち収入も減る。

 ちょっと前まで芸者だ、バーの女だと忙しかった男たちも、何もなかったかのように妻のもとにおさまりおとなしく隠居している。隠居だけならまだしも、あれだけ自分というものをもっていた男たちがすっかり妻や子供たちに感化されたような話しぶりになっている。

 弱くなっていく同世代の男たちを思いながら、自分はまだまだ現役だと思う義江だ。

 軽い脳溢血で入院していた義江は医者から、

「藤原さん、鎌倉山のような静養にぴったりのところにおウチがあるんだったら、そこでゆっくりした方がいいですよ」

 と言われ、それもそうだなと昭和の初めからあきと長年暮らした鎌倉山の屋敷で静養につとめた。

 テレビをつければオリンピック一色だ。義江にとってオリンピックは昭和7(1932)のロサンゼルスオリンピックの開会式で歌を披露したりと、なじみ深いものだ。

新橋の料亭にて右から伊藤道郎、義江、早川雪舟(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)

 東京オリンピックの開会式を見て残念だと思うのは、総合演出を任されていた伊藤道郎が、オリンピックを前に亡くなってしまったことだ。彼だったらどんな演出になったのか。4年前には東京都からの依頼で一緒にローマのオリンピック開会式へ視察に出かけたにもかかわらず、伊藤の死により義江のオリンピックの仕事もなくなった。

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